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信じるということ

あるコミュニティーの場で、「私はまだ**を信じきれていないが、信じられるように努力している」という話があって、若干の違和感を感じた。
いい悪いではないが、一方でもしかしたらこうゆう思考回路が多くの人の背景にいろんなレベルでありそうだと感じた。
 
違和感の内訳はこんな感じ:
・ある方法があったらそれを状況に合わせて適用していけばいい話であって、わざわざ信じる必要はない。
・主体が「方法」にあって自分にない。
・努力すべきなのは信じることではなくて、自分の頭でその作用機序を理解する、あるいは習得することではないだろうか。
 
どういうときにこんな状態になりそうか考えてみると。
 
・「信じる」必要があるということは、構造や概念がむずかしくて理解することを諦めている。
・「方法」が特定の個人の暗黙知に大きく依存している。
・その方法の意味の理解が難しいために、作用機序を把握できないまま、他の人が「これはいいよ」という言葉を信用して盲目的に適用している。
 
信じるというのは美しい言葉なので、大切にしたいと思う。
一方で、その対象を吟味しないと、主体性をそこなったり、過剰適用になるリスクをはらんでいる。