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2種類のべき

「べき」は危ないと書いたが、「べき」は危ないべきとそうでないべきの2種類ある。


・危ない方は、実質の伴わない「べき」
「べき」をいう根拠が、いままでの慣習とか、他はよくやってるとか、普通はこうだとか、イメージ先行で理由が明確でない場合。
多くの場合は、その理由が論理的に明快に説明されず、聞いても曖昧な答えしか返ってこない。


年配の「普通はこうだ」が一番あぶない。 変に説得力があるからだ。 
普通なんてこの世にはどこに無い。
それは、幻想にすぎない。
たとえ、統計の数字があっても「普通は」という考え方自体が幻想だと宣言しているようなものだ。


そんな「普通」には耳を貸す必要はない。


さらに怖いのは、書籍にかいてあるからとか標準談団体がこういっているからだとかから、発する「べき」。
論理武装されているだけに、幻想を幻想として理解させるのにパワーが必要になる。




・危なくない「べき」
その背景や正しい現場の現状認識とフィロソフィーの説明にともなってでてくる「べき」。
これは、べきは、その説明の結論として言われる。


〜だから、「こうすべき」だよねっていう感じ。


その「べき」が成立する前提を明確にしているから、危険性はすくない。 相手に状況が成立するかどうかをジャッジできる機会を提供している。