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意図的であるかどうか

なんとなく背景にあってあたりまえになっていてうまく行かないことの一つがかすかにみえたきがする。
あえて中立であるということを意識して行動していたつもりだが、それは、客観的事実がなによりも強いはずだと言う思いからだった。 ちゃんと構造さえ説明できれば、ものごとをあるべき方向にもっていけはずだし、相手も必ず気がついてくれるはずだし、純粋な事実としての構造からはのがれれられないはずだと思っていた。 そこには気持ちがどうこうとか達成の意図があるかないかとか、あるいは意図が表現されているかいないかによらないと思っていた。 
逆に意図からだったら、自分が「言ったから」という事になって依存関係を作ってしまう。

このことの落とし穴は、構造があっても相手が必ずしも自分のちからでをれを理解するとは限らないということと、非積極的であることで意識的でない悪意がある場合は、上記の仮説による前進はしないということだ。

さて、仮説がなりたたないなら、如何に依存関係を作らずにものごとを前進させたらいいんだろうか、それとも依存関係ができてしまうことをガードするのを捨てるべきなのか。

追記:
そうかぁ。それがあるから、「私が責任をとるから」っていう上司像に抵抗があるんだ。 もし自分の上司が「私が責任をとるから」っていってくれたとしても、結果自分が失敗したとして、そのときに自分の上司が責任取ってくれるということがどういうことをさしているのか全くピンとこない。 だれが責任をとると言おうが、自分の失敗を上司がかぶって自分の評価が守られたとしても、自分のやったことは自分の責任でしかないことは事実としてはまったく揺るぎようの無いことだからだ。
そしてゆるぎない事実はだれが責任を取るといってくれたとしても、いずれは伝わってしまう。なぜならそれはただ単に事実であるということだからだ。
だから「私が責任をとるから」っていう意味自体がよくわからない。 責任は取るって言えば取れる物ではなく、そこに存在するものだと思う。