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振り切れ現象

物事は極端に振り切れる傾向がある。とくに社会的な問題や感情を喚起する問題に関して極端になりやすい傾向がある。 物事の真偽や良い悪いを決めることは悪くないが、本当は多くの問題は複雑で、前提条件の厳格な仮定なしで固定的な評価を行うことはできないはずだ。


価値をもつべきなのは、固定化した評価ではなく、どうバランスをとるかという視点だと強く思う。 責任がある人は特に物事は相対的でありバランスという視点を持つべきだ。


例えば、ゆとり教育の問題。 詰め込み教育の弊害がいわれ、行きすぎたゆとり教育が推進され、社会人になって社会人としての人間力教育がいままで必要になったり。 環境問題についてもしかり。 環境についてはすでに巨大な環境ビジネスの市場が形成され、C02排出権売買の巨大な市場が形成されようとしていて、巨大な利権が動き始めている。 そして、環境問題に異を唱える人は、不当な扱いを受ける。


アジャイルが再度流行りつつ状況で、同じような危機感を感じる。 アジャイルが良いからやろうでは、適用に失敗するだろう。 システム開発の現場をどう改善するか、自分達の組織の人間関係をどう改善するのかという視点や覚悟なしで、方法論としてのアジャイルを導入してもなんの解決にもならない。 それこそウォーターフォールでやった方がいいこともいくらでもあるということをちゃんと認識しておく必要がある。


アジャイルのプラクティスの源流の多くは、古くからの製造業での方法論なのだ。 それらから学び、ソフトウェアの開発にもちゃんと活かそうよというのがアジャイルを取り巻く考え方だ。 決してすべてが新しいことなのではない。
そしてさらに、自分達で作業環境や生産の効率を改善しようというのは、新しいとか古いとかという価値とは全く関係なく、ごく自然な行動であるように思う。 そのための今までのノウハウをどう活用しようかというスタンスもまったくごく普通の行動だ。


反対論者のパターンとして面白いものの一つは、アジャイルは必要ない、なぜならいままでの方法で十分にうまくやっているから変える必要がないというもの。 そういう人にどうやっているかをよくよく聞いてみると、凄くアジャイル的なことをやってたりする。 うまくいってるなら変える必要は本当にないと思う。 アジャイルを説明するだけで、守りに入り「変える必要はない」と主張されたりする。 いや、本当に変える必要はないですよ。笑


ただし、どんな状態からでも次ぎのアプローチや可能性はつねに検討すべきだという点は変わらないと思う、なぜなら、状況はつねに変化していて、同じ方法で常にうまくいくとはかぎらないからだ。


とくにシステム開発の現場では、人生とおなじように「1回性」の問題がある。 同じメンバーでおなじ複雑さで、おなじアーキテクチャーでやるようなプロジェクトは一生のうち1回しかない。 それこそおなじ条件のプロジェクトは世界を探しても2つとないだろう。 共通化できることがあるとしても、根本的な問題が「一回性」であることにはかわりない。


「一回性」の問題に対しての有効な戦略とはなんだろうか?



アジャイルの適用がうまくいくかどうかは、この疑問の答えを自分の頭で考えられるかどうかにかかっていると行っても言い過ぎじゃないと思う。
感情や感覚や直感判断はとても大切だが、バランスを欠いた行動は大きな間違いを犯す危険が高いのだ。

アジャイルなどの知識をつかって、自分の頭で最創造し、現在の環境に適用するバランスを考慮すべきなのであって、プロパガンダとしてのアジャイルにしてはいけない。