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ビジョン

意義を見つけること、それがたとえ幻想であっても、個人の行動原理としての意義を見つけること重要だ。
しかし、それは怒りからくるものではなくてビジョンからくるものであってほしい。


組織に個人が同意できて腑に落ちるビジョンがあればそれにのっかることができるだろうが、おおかたそういうものは存在しない。 小さなプロジェクト単位でのグループでのビジョンをマネージできるのがせいぜいだ。


怒りから来るビジョンはつくりやすいし、意義として腑に落ちやすいので、マネージメントでは散々使われて来たが、どこかそれは幸せじゃない。
意義を作りにくい時代だからこそ、意図的に作る必要がある。
お客さんのところのシステムを派遣で開発しているメンバーがそのことに、どう意義を見いだしたらいいのか、それはとてもむずかしい問題だ。 仕事だから意義もくそもないといわれればそれまでだが、そうしてきて、いままでどれだけの不幸を作り出してきたかという点をちゃんと直視する必要がある。


自分の能力にあわせて、楽しく仕事をこなしその成果が世の中に活かされるというだけでも意義深いはずだが、なぜかそういうふうにはなかなかならない。 納期のプレッシャーにさらされ、個人の生活や健康を犠牲にして、犠牲者で仕事をしている人達が多いのはなぜなのだろう? それは個人の責任だとは言い切れない。


何かを良くしようとしたときに、そこに、怒りが含まれている事が多い。 なぜなら、だれかの不正や考慮不足や責任逃れや利己的な行動によって、環境が悪くなっていることが多いからだ。 怒りからの行動はパワーがあるが、そこには一種の復讐的なメンタリティーが多かれ少なかれ含まれてしまうことがある。 これはそれ自体が不幸な面をもってしまっている。


今の時代にはマイナスをゼロにむかわせるのでは、十分ではなく、マイナスをプラスにもっていくビジョンが必要だと思う。