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つねに本来どうあるべきかを問うこと

いろんなピースがつながってきた感がある。


まず、アジャイルジャパンでのメアリーポッペンディーク氏の講演。
PFドラッガーの石工の話の引用から。(べつの資料からの引用なんで、ニュアンスはちがうかも)

3人の石工がいました。
そこにある人が「君は何をしているんだね?」と尋ねました。

一人目の石工は「石を切っているんだ」と答えました。
二人目は「家族をやしなっているんだ」と答えました。
三人目は「教会を建てているんだ」と答えました。

問題が起こったときに柔軟に対応でき、意味ある工夫をしようとするのは三人目だ。
また、やりがいを一番感じるのも三人目だ。


トヨタでは現場の作業員に、その車がユーザーにどのように使われて、どのように存在意義があるのかを理解するまで組み立て作業はやらせないそうだ。 コンセプトのビデオみたり、メンバーをあつめて、勉強会を行う。
石工に教会を意識させるためのやりかただ。


ソフトウェアの開発でどうだろう。
タスクが割り当てられて、だれかがつくった設計書をもとに作り始める。 担当者は「教会」がみえているだろうか。
ITソフトウェアの教会は、ソフトウェアがその企業のビジネスにいかに影響するかということと、そのビジネスによって起こる社会への貢献であると思う。

それがわかる状態を維持することは、要求開発などのビジネスモデリングの技術が有効なはずだ。 


これはそのまま、さまざまな要求の次元に当てはめられる。 それらは、企業、社会、地球、人生、家族、地域、健康、プロジェクト、コミュニティーなどなどなど。
個人はこれらの様々なスコープの要求(あるいは目的、や方向と言い換えてもいい)の中にいる。 それらとの関係を見える状態にすることが、どの場合でも重要なことのように思う。


たとえば、パーソナルなレベルでの「要求」は、旅行だったり、人生だったり家族だったり健康だったり、これはマインドマップレベルで、見える化できそうだ。 
このことはそのまま、要求開発のモデリングはあらゆることに応用できる可能性を示唆している。


「つねに本来どうあるべきかを問うこと」は黒岩氏の講演ででてきたトヨタ生産方式のフィロソフィーとしてでてきた言葉。

つねに、本来どうあるべきかをといつづけることそのものが、石工の教会にあたるものが、本当はなんなのかを探求し創造していく力になるという構造であるわけだ。