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意味の意味と精神の自由

essence2008-03-23

資格や社会的認知がないとその人を認めないことがあるのは一種の弱さの表れであると思った。 他の人が認める社会的ななんらかの価値基準に照らした評価が先にあって自分の評価基準よりも優先してしまうということ。
 
久々のオールナイトライブイベントに参加。 アーティストの方達と話しながら、つらつらと「意味」について考えていた。
XL@Bar Jam
http://xl.color-music.com/index.html

 
直接アクセスできる情報が少ない場合、過去の実績や資格など一般の価値基準から当たりをつけるしかないのはいたしかたないが、一般の価値基準ではかれない価値がある可能性があるのに、評価を結論づけ可能性をみることをやめてしまうのはやめようと思った。
 
芸術の世界では特にそうで、音楽教育をうけているかどうか、西洋の理論を知っているかどうかだけで評価することはできない。 理論も知らず楽譜も読めなくてもすばらしい作品を作る人は沢山いる。 理論の小手先で作品を作れてしまう大多数をみたら、脳科学者の茂木健一郎氏のいう「クオリア」に相当する表現や音楽の核にたいする誠実さは比べようもなく純粋でクリエイティブである。 
 
芸術表現は理論で作れるわけではない。 理論や知識が「クオリア」へのアクセスの障害になることさえある。 創作に純粋であるには、無知である必要があると、多摩美術大学の対談で中沢新一氏が言っていた。(※1)それは、若い作家に対して「君たちは最初っからそこなんだね」という言葉に現れていた。
 
芸術文化の発展とは意識を知っていながら無知であるのと同じ無垢さとクリエイティビティーを得る血を吐くような、それまでの自分自身と社会の良識を破壊しつづける戦いであるとも言える。 時々若い作家が、先端を切り開いてきた作家が血みどろになって戦ってやっと得た視点で、さらっと新しい作品を作れてしまうのは、無知であるからこその特権であるとも言える。
 
人は意味を求める。 仕事の意味を求め人生の意味を求め、そのために行動しそのことが行動原理になりモチベーションになる。 意味というものは不思議な物だなと思う。
 
人は意味に力づけられることもあれば、意味に依存することもある。 モチベーションを発揮できる「意味」は力づけられるモノであり、依存してしまう「意味」は自分自身の感性や基準による評価ではなく、資格であるとか学歴であるとか権威であるとか自分自身以外の他の情報からの評価に終始してしまう場合のモノである。 後者は一種の人の弱さであるとも言えるが、弱さを認識していてすぐに結論づけずに可能性を尊重する姿勢が理性的な姿勢であるように思った。
 
どんなに精緻な理論から作られた作品であってもそこに、「意味」がなければただのゴミである。 逆にそこに「意味」をこめ、つくりだす過程そのものが創造活動そのものであるとも言ってしまっていいのかもしれない。 そのために道具としての理論を使っても使わなくてもどちらでもかまわない。 
 


※1
podcasting:
21世紀文化論 高木正勝中沢新一長谷川祐子「表現の新しい可能性 sound and image」