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二元論と文字

essence2008-02-18

ケルト文化と日本文化の対比による対談の試み。 ゆったりした会話から構築される世界観の広さ、知的視野の真実みに圧倒された。

辻井喬」はセゾングループの実質的なオーナーである堤 清二氏のペンネームである。
 
PodCast:
21世紀文化論 辻井喬鶴岡真弓ケルトの風に吹かれて」
http://phobos.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewPodcast?id=266570122
 

日本文化はもともと、文字を持っていなかった。 中国の漢字を流用して編集しながらつかっているわけで、いってみれば日本オリジナルの文字ではない。 同様にケルト文化にも文字がなかった。 これは意図的に文字を作らなかったのではないかという仮説が面白い。
 
話し言葉の音を何らかの形で残すような記号を作ることは、ケルト文化にとって簡単であるはず。 なぜなら、ケルトにはとても多様で克つ奥の深い文様の文化があって、この、心象や風景を抽象化して図画や文様といった記号化してあらわす能力と文化があるのに、言語を文字にする能力やきっかけがなかったとは考えにくいというのだ。
 
あえて文字をつくらなかったのではないかというのがケルトと古代日本の知恵の共通点ではないかと辻井氏は語る。 日本の文化の特長は「成る」「継ぐ」「いきおい」という3つのキーワードで説明しておられる。 西洋的な急進的な文化は明治以降であってそれまでは「成る」「継ぐ」などの状況を受け入れる文化だったのだ。 いまでも良いも悪いも、その傾向はねづよく残っていることは感じることができる。
 
「成る」「継ぐ」と正反対の考え方は、正義という考え方の正しいか正しくないか、あるいは、勝ったか負けたかに代表される二元論だ。 芸術や創作の世界は二元論とは無縁である。 氏は二元論は文字というシステムからできているという。 文字が構造を作り、固定化し、二元論を生む。 これまた目から鱗だった。
文字はそれだけでつよい暴力性をもってるという。
 
吉本隆明のいう正しさを最後まで追求したら自殺するしかない、三島は正しさを最後まで追求したから切腹したというのとイメージがかぶる。 文字をつくらなかったのは、ケルトと日本文化のもつ知恵なのだ。
 
現代社会は西洋という一部の地域の文化が異常に広まった世界になってしまっている。 グローバルスタンダードは、その最たる物である。 ケルト的、あるいは古代日本的価値感に学ぶ点が多いと感じた対談だった。